凶悪な少年犯罪の報に触れる度に、
世間は泡を食って社会の歪さに原因を求め見つけようとする。
果たしてそうだろうか?
もちろん社会的議論は必要だが、
結局、何かのせいにしてスポイルする議論になりがち。
人は思い通りにいかないとつい周りを見渡し、
目障りな事柄を否定しながら非寛容になりがちだ。
足を引っ張り、あるいは暴力で従わせる者もいるだろう。
いじめや自殺、ひき籠もりの原因もそんな潔癖性にも似た
個々の非寛容さに実はあるように感じる。
ピュアな万能感の賞味期限が残こる「青少年」期には
特に、残酷に、際だって現れる。
皆がそうだとは言わないが、
この頃の連中はいくら社会が、教師が、警察が、
まして両親がいくらこんこんと言い含めても無理。
事件にこそなりはしないにしても、
そんなことはみんなあの頃の「猿山」で経験済みなのに、
なぜか社会は「特別な事(他人事)」として扱う。
「何故?」と繰り返すニュースを見ながら、
「ボク」と「彼ら」の違いを見出せない。
ボクは「寛容になれ」などとは思わない。
ただその潔癖性な思考が排他性を助長してないか?
加害者の名前と顔写真を公表して何の解決策になる?
世の中の興味が消費するだけだ。
胸に手をあてて一から考えよう。
↓そんな昔話とピアノの話。
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