凡人は凡人らしく、間違っても自分には何か特別な個性があるなどと勘違いしないで、「大いなる凡人」として幸せな一生を生き抜いて行って欲しい。
すでに何十年か経ったであろうか、「個性を伸ばす教育を」と、文部省が胸をはって謳っていた。彼らによると、どうやら個性は他人が育てるものらしい。自分が特別な何者であるかを教育するというのだ。大きなお世話である。まず、個性など持った事もない教員が個性の意味を履き違えるのは当然の事として、そんな教師から「個性を持とう」などと指導される児童にとっては甚だ迷惑な話である。そんなものは勝手に出てくるものだ。個性と呼べるものがやがて出てきて、それが隣の席の子と同じであってもいいではいか。いずれそれを「普通」と呼ぶことに気付く日がやってきても、何を恥じる事があるのだろう。もっとも集団の中で個性など持ってしまったら、それこそ毎日が地獄だろう。異分子を排除しようとするのは特に子供の社会では徹底している。そんな時代に排除されない陳腐な個性をたたき込まれてしまった連中が今なお、個性的な自分である事を捨てられずにいるようだ。だから必死で「私はこんなに個性的なんですよ」と言っている。そして彼らはその陳腐さを覆い隠すように、それを一様に「コダワリ」と表現している。