身の置き場の無い空間ほど人は不安に駆られる。そしてこの社会の中で居場所を見失っていく者が急増しているのも事実だ。あの時、呆れないで「ここにいても良いよ」とかかわり続けてくれた人たちには、いくら礼を尽くしても尽くしきれないと思っている。しかし彼らも私を必要としていたに違いないとも思っている。「居心地の良い場所」とはだいたいそんな感じじゃないだろうか。お互いにミッシングピースを求める不完全さが青春というもので、同じ毛色ばかりではお互いの成長は望めなかっただろう。それぞれに仲間での居場所があって、君がそうするなら、ボクはこうするよってな具合で、互いの力を認め合うリングのようなバランスが保たれていたに違いない。そんな気がする。
いつの頃からかピアノを弾きながら前触れなく詳細な記憶が突然に蘇り、とても不思議な気分になる事がある。それは学校帰りの遠くにある風景の一部だったり、カラカラと笑っている友達の髪形だったり、彼女のシャープペンシルを握る指先だったり、自転車で走っている時に流れるセンターラインだったり、その道すがらにすれ違った車のエンブレムの形だったり、夏休みに鳴っていた不規則な風鈴の音だったり、いつか立った事のある交差点の点滅信号だったり、一見何の役にも立ちそうにない通り過ぎてしまうだけの記憶の断片が匂いを帯びて現れてくる。まるで自身を追体験するような感覚だが、けっして自分自身の思いがそこに登場する事のないただの記憶だ。しかしそんな漠然とした記憶の先をたどっていくと、現在を試すように懐かしい思い出がヒョッコリと顔を出す。あれから大人になった今、居場所を確かめる事は少なくなりはしたが、88個の鍵盤上で、ほんの少し右手薬指を半音上げてやるだけで描く世界は劇的に変わって行くように、周りが変わらずとも自分の立ち位置でずいぶんと違う物だ。そろそろどうだろう、いまの「居場所」を変えてみるのも一興かもしれない。30年前、学期末試験で未踏の域を突破したあの時のように。