PHOTO : ピアノに生々しく残る直撃した焼夷弾(不発)の跡/戦災資料センターにて
その昔、手塚治虫は未完の漫画「火の鳥」の中で
〜なぜ人の世は戦争がなくならないのか?〜との問いに
「正義と正義の争いだからなくならない」と言ってのけていた。
どんな戦争も最初に敵を「悪」と決めつける。
そこから心理的な飛躍が起り「あちらが悪いのだから、こちらは善いはずだ」となる。
確かにファシストや独裁者は悪者と言えるかもしれないが、
だからといって打倒する側が善いことにはならない。
そうして見方を変えると戦争とはどちらかがより悪いだけで、
第三者的に見れば悪と悪の争いだということがわかる。
手塚治虫はその辺りを当事者と同じ目線に立ち「正義と正義の争い」と表している。
改めて彼の思慮の奥深さを思い知った。
いわゆる「善意」の戦争「打倒ファシスト」の戦争でも
最後は腐敗と暴力、罪のない民衆の殺害に至る。
自分は正しく敵は誤っているという大前提さえあれば
自分の行いはすべて許され、あとは考えなくて済む。
敵が悪くこっちが正しいのだから、
南京で、ドレスデンで、東京で、何万人殺そうが気にしない。
気にかけるのは費やすコストぐらいなものだろう。
そしてより合理的な大量殺人兵器を研究し、
広島や長崎で何十万人も殺せるようになる。
某TV討論番組で知識人や専門家の間ですら
未だに「善い戦争」とか「悪い戦争」などといった感覚が顔を出し、
今般の北朝鮮問題に及んでは「専守防衛敵地攻撃」などと
まるでアメリカの「予防戦争」にも似た議論が大手を振りだした。
もちろん戦争継続中のあの国が何をしでかすか分かったもんじゃないが、
僕たちがその前に警戒しなくちゃならないのは飛んでくるミサイルよりも、
正義というトリックなのかもしれないと、ふと想う。
(1)IMAGINEはもういらない
(2)恐怖は儲かる
(3)ヒロイズムという神話
(4)そして戦争は正当化される
(5)戦争が出来る立派な国にしよう
(6)ナショナリズムからパトリオティズムへ
(7)正義は我にあり
(完)イマジンよりアクション